留学&キャリアとしての留学カウンセラー

留学の全てを知る留学仕事人の得する留学情報、業界動向、留学カウンセラーになるためのノウハウ等の解説

留学カウンセラー養成講座

JAOShttp://www.jaos.gr.jp/認定の「留学カウンセラー認定講座」http://www.jaoscc.jp/のスクーリングが先週末にアルクでありました。

今回は第2回目で現役留学カウンセラー、大学や高校の職員、大学生など約80人ほどが集まりました。2日間で今まで各自が通信講座で学んだことをベースにして、各専門家から講習がありました。

私も「留学カウンセラーとキャリアデザイン」というお題で、自分の体験を踏まえたプレゼンをしました。

このスクリーニングでの試験に合格しないと、認定を受けられないため、受講者は皆熱心で、とても真剣でした。

現状、留学カウンセラーの認定試験は、日本にはまだ2つしか存在せず、それもまだ歴史が浅いため、認定カウンセラーの数も少ないのです。つまり今留学カウンセラーと称している人たちの大半は、「自称」留学カウンセラーで、所属する機関が勝手にそう呼ばせているのです。

もちろんそのようなカウンセラーの中にも、知識や経験も豊富な良いカウンセラーもいますが、そうでない人間もカウンセラーと名乗っている事実があります。

早くこの認定スキームが一般化して、日本の留学カウンセラーの平均的な質があがることを願っています。
http://13.dtiblog.com/r/ryugaku1/file/

タイのバンコクにある英語学校

バンコクの英語学校


1週間ほどタイに出張してました。
今回はイギリスのある教育団体主催のカンファレスに参加しました。
世界から約30の留学エージェントとイギリスの5つの大学も参加しました。

会議とは別に、バンコクで英語学校を視察しました。「なんでタイで英語留学?」と考えるでしょうが、現在結構な数の日本人が留学するようになってきているそうです。タイが好きな人、物価の安さなどで選ばれるようです。

学校の名前はWall Street Instituteといいます。ヨーロッパでできた英語学校のチェーンのタイのフランチャイズです。なのでカリキュラムや教授法、テキストなどは実証済みです。

写真のようにモダンでおしゃれな雰囲気で、対のちょっとお金持ちの学生もたくさんいました。

昨年はフィリピンとマレーシアの学校を視察しましたが、タイもメジャーにはならないでしょうが、留学先の選択肢になりえると思いました。

留学仕事人キャリア略歴

留学仕事人の留学ビジネスキャリアは当然留学カウンセラーから始まる。(1986年9月)

・見習いスタッフとして留学カウンセラーになるための研修を受け、先輩カウンセラーの留学手続きのアシスタントを勤める。(社員約30名)
・往復4時間近くの通勤時間を生かし、会社にあった留学関係の本を30冊近く濫読して知識をつける
・約3ヵ月後無事独り立ち。留学相談と手続き業務をひたすらこなす。
・会社が急成長のため87年に銀座の新築ビルに移転。社員約50名に。
・オーストラリア留学開発プロジェクトリーダーとして商品開発。OZ政府に招聘で現地の学校20校以上視察。
・88年2月名古屋事務所開設。翌月大阪事務所開設のため支店長として転勤。
・現地の社員採用から開始。4人で大阪オフィスオープン。1年後には10人に成長。研修から営業まで全てをこなす。
・89年にイギリス・イタリアに出張。90年にNAFSA会議に初参加。
・91年に東京本社に課長として戻る。大阪は15人の陣容になっていた。
・留学カウンセリング、手続き、旅行、支店管理などの部署のヘッドを歴任。役職も課長から次長になる。
・94年渋谷から西新宿アイランドタワーに移転。社員は約120人に。
・98年部長、99年執行役員になりマーケティングを担当する。
・2002年MBAなどの留学準備校に転職。マーケティング担当役員。
・2003年ある出版社の留学センター設立担当者として転職。
・2005年現在の会社に出向してから転籍。執行役員。

ということで業界経験は今年で22年になる。
29年以降は毎年のように海外出張して、今まで約500校以上の学校を視察した。また日本のみならず韓国にも業界仲間が多く、様々な情報交換をしている。

さて次回からはやっとこのブログの本題のテーマに入って行きたい。お得留学情報やカウンセラーになるための方法などを書いて行きたいと思う。

留学仕事人生い立ち(留学キャリア開始)

留学から帰国したのは1986年6月だった。

当初、南カリフォルニアボケで正直格好も志向も浮いていたと思う。2年ぶりの日本はお札も変わっていて、やたら外国人労働者が増えていた。
家のキッチンの高さが凄く低く感じ、以前はぜんぜん気にならなかったタバコの煙が耐えがたくなっていた。ドアに鍵がかかっていないことがとても気になり、いつも鍵を閉めまくっていた。

帰国の翌日に、約束どおり世話になった留学エージェントを尋ねた。私が利用した当時から倍の大きさになっていたが、まだ以前と同じおんぼろビルにあった。担当カウンセラーに挨拶をして、職探しのサポートを依頼した。一通り話を聞くと彼女は「うちも受けてみない?」とのことだった。

留学の仕事など全く考えていなかった私はとても驚いた記憶がある。冷静になって考えたら、経験を生かせるし英語も使えるし面白いかもしれないと思い、OKと答えた。

当然、他の選択肢を数箇所あった。商社、貿易会社、メーカーなど数社にも当たったが、当時余り転職市場も無くいい結果が得られなかった。そんな中、その留学エージェントの社長といきなり面接をした。

まだ帰国したばかりで背広を実家で探せなく、ポロシャツとスラックスでの面接だった。面接内容は留学で何をしてきたかなど本当に一般的なことだけだったような記憶がある。

翌日電話がかかってきて合格なのですぐ来てほしいとのことだった。しかし他に会社を廻っていたので「1ヵ月後にしてほしい」と伝え、しぶしぶ認められた。

結局、その留学エージェントに入ったのだが、後でわかったことだが、丁度その会社は急成長の課程で、大学への留学経験があるスタッフ(特に男性)を、とても強く欲していた時期だった。だから丁度タイミングが良かったとも言える。

そこで私の留学ビジネス人生が始まったのである。1986年9月のことだ。

次は私の留学キャリアの略歴を書きたいと思う。

留学仕事人生い立ち(留学編)

留学仕事人の留学経験を紹介しよう。

留学先はカリフォルニアのSan Bernardino。LAから東に約1時間の町。

1984年から2年半留学していた。

・カリフォルニア州立大学のESLに4ヶ月
・無事TOEFLを取ってSan Bernardino Valley Collegeに入学
・専攻はコンピューターサイエンス
・ESL時代は大学寮。ルームメイトはブライアンというアメリカ人。結構落ち着いたまじめな学生。毎週金曜はパーティーがあった。皆馬鹿みたいに騒いでいたなあ。風船に水を入れて投げっこしたり、ギリシャ人の格好をしたり。楽しかったです。
・タイやインドネシア、台湾の留学生と仲良かったです。
・カレッジに入ってからは、ホームステイ、アパート、一軒家に住む。
・一軒家はラッキーなことに、月100ドルで以前ホームステイしたときの家族の知人の叔父の家(その方は老人ホームに入っていて誰も住んでいなかった)を借りていた。部屋が5つあり2台車が入るガレージがある大きな家だった。
・アメリカに来て初めて自炊をした。ご飯を炊いたり味噌汁を作ったり、いい経験だったね。月に1度はLAのヤオハンに買出しに行ってました。
・女子バレー部のアシスタントコーチをやって奨学金をもらっていた。
・向こうのクラブ活動は全く違う。単位がもらえる、用具も支給される、試合は大学のバスで行く、コーチより選手が偉い感じでネットを張ったりするのはコーチがやる。でもアメリカのバレーやクラブ活動の様子がわかり楽しかった。
・自分はコミュニティーの草バレーチームでプレーしていた。結構引っ張りだこだった。友人を作るのに大いに役立った。
・勉強は英語が慣れてくるとそんなに辛くはなかった。特に数学、体育、英語やスペイン語のクラスはトップの成績。
・GPA3.6で無事卒業
・勉強以外は平和文化団体に入り、ホノルルやニューヨーク、サンフランシスコなどのコンベンションに参加した。ここで英語を鍛えることができた。

留学中一番頭を悩ませていたのは就職のこと。アメリカに残るか日本に帰るか悩んだ。一応OPT(卒業後1年間働ける許可)も取って就職活動もしたが、祖父の様態が悪くなり帰国の決意をする。

日本での就職の当てはまったくなし。ただ留学時に世話になったカウンセラーからの手紙で帰国したら就職相談にも乗るとあったので、それだけが頼りだった。

次回は留学カウンセラーになるまでを紹介しよう。

留学仕事人生い立ち(留学前)

このブログの本題のテーマに入る前に私(=留学仕事人)のプロフィールを3回に分けて紹介しよう。

第一回 留学前まで

・生まれは東京の府中、5歳までは親父の仕事の関係で埼玉、九州など10回近く引っ越す。
・5歳に東京都下の米軍基地の街に引っ越す
・親父は戦後すぐに学校で英語を学び、一時は通訳をやっていた
・ベンチャー精神旺盛な親父は基地の街で米兵相手に商売を始める。中古車販売→貿易→飲食店→コインランドリー(始めたのは1960年代で日本でまだ殆どこの商売をやっている人がいないときであった)→カメラ屋などなど
・地元の小学校はクラスに必ず1人はハーフの子がいた
・その子と良く基地の中に入った
・60年代に初めて食べたハンバーガーとピザのおいしさにたまげた。思わず「アメリカすげえ!」と思った。(小学校時代)
・中学は従兄弟がいた渋谷の公立中学に越境して2年から通った
・高校は制服が無い共学の都立高校を選ぶ
・バレー部に入り。スポーツに熱中。
・2年・3年の時は、運動会で応援団長・分団長を務める(各学年で4名のみ選ばれる)
・どうにか現役で都内の大学合格
・体育会のバレー部に所属。3年次に主将を務める。
・クラブ引退まじかからDiscoにはまる
・80年前後Discoの常連として通い続けソウルダンスの腕を上げる
・ダンスのコンテストなどに出る(最高3位入賞)
・就職活動は大学推薦で有名百貨店と某大手お菓子メーカー
・両方とも青田刈りで重役面接まで行くが最終面接で落ちる
・就職情報誌で見つけた神田にあった紳士高級服地の問屋に就職
・留学のため10ヶ月で退職

このように、今流行の第二新卒パターンを25年以上前にやってました。
バレーボールとソウルダンスは相当やったのでかなりの腕前になりました。これが留学で凄く使えたね。ではその話は次回。

 | HOME |  »

Appendix

留学仕事人

留学仕事人

留学プロデューサーとも呼ばれる。

「こうすればなれる留学カウンセラー」(リーダーズノート社刊)の著者

留学業界20年以上。世界の学校500校以上を視察。海外の業界紙や国際会議で日本の留学事情を発信している留学仕事人。日本だけでなく海外の留学業界事情にも精通。

何故か音楽も都市もソウル好き。往年のソウルダンサー。最近はサイクリングがマイブーム。愛車はコペン。

DTIブログポータルへ
このブログを通報
Report Abuse

利用規約

Monthly

Categories

Calendar

« | 2008-01 | »
S M T W T F S
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -

Recent Entries

Recent Comments

Recent Trackbacks